2012/06/07

犬の自然とヒトの自己満足

土の上に立っていると、気分が良い。

リリーの散歩の行程の半分は土の上である。

近所の公園から公園へ、土の地面を求めて歩くのが、リリーの散歩のスタイルになっている。

草むらや土の上は、犬にダニやノミが付くから、歩かせたがらない飼い主さんもいるようだが、私は逆だ。

なるべくなら、コンクリートやアスファルトの上は、歩かせたく無い。
犬が柔らかい土を踏んで歩くのが、犬の散歩の全行程であってほしい。
都会ではそれは無理な話だ。
犬の大好きな公園まで辿り着くには、コンクリートやアスファルトの道路の上を歩かなければならない。
都会は、クルマ社会に形作られた道路社会だ。
そのわずかな隙間に、犬の居場所がある。

草原を吹き抜ける風にあたり、土の上を歩くのが犬の自然の姿だと思っているが、そういうヒトとしての私の考えには欺瞞がある。

犬には犬の独自社会があって、犬の家族(群れ)のなかで暮らすのが犬の自然な姿なのではないか。
犬に避妊手術を受けさせ、犬自身の自然な能力を奪っておいて、犬の自然な姿云々は、当の犬から見れば滑稽な話だ。

ヒトの犬に対する思い入れには、ヒトの自己満足がある。
犬はヒトの自己満足の友である。

だから、ヒトのわがままな自己満足につきあってくれる犬に感謝しなければならない。
犬の社会ではなく、ヒトの社会で暮らそうとする犬のおおらかさが、ヒトを癒してくれるのだろう。

ヒトが可能な限り犬の自然に近づくことによって、犬もヒトの社会に近づく。
ヒトは犬とふれあうことで、自然について再認識しているのかも知れない。

それを私たちは犬から教わるのだ。
犬に良い事は、ヒトにも良いと。
時々遠くを見つめる犬の澄んだ眼差しに、ヒトは驚かされる。
犬の目は、おやつにばかり注がれるのでは無い。

犬には、おやつ以上に尊いものがあるのだ。


木の根元も好きだね。
広々とした自然が最高さ。