小屋の中から、両手を揃えて公園を眺める犬。 |
上の写真のように、腰掛けの下で行儀よく両手を揃えていたり、ときには、腰掛けに顎枕していたり。
リラックスした姿勢で、じっと公園を見続けているのだ。
何かを待っているようでもある。
犬には、古来より「待つ」という優れた能力が備わっていると思う。
これは、あたりまえだが、鶏や牛には、顕著には見られない傾向だ。
ヒトの狩猟の補助をしていた犬は、静かに獲物の到来を待っていたに違いない。
犬にとって待つことは、何かを見張ることでもあるだろう。
犬は、待ちながら見張り、見張りながら待つ。
リリーは、飼い主の指示をじっと待つというほど、訓練の行き届いた犬では無い。
リリーが小屋の中で、公園を眺めながら静かに待っているのは、それが古来より受け継がれた犬の生活だからだろう。
そしてヒトは、犬の待つ姿にも癒されているのだ。
犬が何を待っているかは、犬自身にも解らない。
犬は常に未知の展開を待っているのだから。
やがて犬が見つめている場面に、新たな動きが生じる。
それに対してリリーは、けたたましく吠えるか、嬉しそうに尾を振るか、尻尾を丸めて退散するか、無関心でいるか、というような行動をとる。
公園のリリーの散歩コースに他の犬を見つけると、リリーは公園に向かってけたたましく吠える。
家の者が、公園の方角から帰宅すると嬉しそうに尾を振る。
リリーが何かを待つ仕草をするのは、夕暮れが多い。
夕暮れの背後には、闇の夜が控えている。
まだ夕暮れのうちに、闇の夜に押されてやってくるものをリリーは静かに待っているのかも知れない。
それは、自分の縄張りをうろつく不埒な侵入者だったり。
それは、大好きな家族だったり。
それは、自身の死の幻影だったり。
夕暮れに何かを待つ犬の横顔は、犬が遠い記憶の夕暮れで何かを待っているような顔つきをしている。
一日の中で、この時だけ見せる顔だ。
その犬の顔をしみじみと見るヒトの遠い記憶が、犬の遠い記憶と交差するような物思い。
ヒトが、犬の待つ姿に癒されるのは、ヒトも犬のように何かを待って暮らしているからに違いない。